読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

「理想」にケリをつけて今を仕方なく生きている人達は、消極的誤解によって上手に生きている。

世のルールを分かったり、実態を発見したと思っていても、本当は何もかも「複雑怪奇」だということを心の奥底では知ってるんだよね。深い部分で無意識的にそれは自覚されているが、現状では何かにケリをつけないと今が立ち行かないし、時間もないから仕方ないだけで。

 

だから私はあらゆることに誤解をしながら生きていかねばならない。この文脈において「誤解」の意味は善でも悪でもない。それは信念もしくは妄念といった「何かを信じる強さ」であり、つまり何かを信じなければ(誤解しなければ)、現実問題に対処できないし先に進めない。

 

だから世情や自分が下らないと思えたり人を傷つけたりして自分の正誤基準が間違っているのかもと心折れそうな時、その根拠が薄弱だと知りながらも自己肯定をし、前向きになることが何を信じていいのかどうしようもなく分からなくなってしまった時に取りうる適正解だと思う。

 

それは善悪が対立している一方の自分をあえて進んで否定することで、他方の自分を無理にでも押し上げつつ肯定させる(少なくとも、固まって動けなくなってしまっている思考の風通しを良くする)力強い推進力、一歩を踏み出す力にもなるかなと。

 

たまに「あなたは自分の仕事に自負心をもってるよね」と皮肉めいた口調で言われる(言われた)ことがあるが、意味がなく下らないと思いつつも現状を肯定して「私」を鼓舞しないことにはやっていけないものね。最善解ではなく適正解でしかないというのは本人がよく分かっていることだし、それを見失うまで妄信せざるを得ない他人からみれば「お馬鹿」な人達はある意味、被害者である。

 

 

 

 

 

書くということ

はてなブログにおける初めての投稿。

以下、論理的明快性のない文章である。


1.書く目的とは
 
 何故、はてなに書くのかという理由は定かではない。現在、様々なブログサイトが存在していると思う。

本当は、最低でも有名どころのブログサービスをだいたい洗い出して、比較検討し、目的に沿った利用がなされるべきだと思う。

しかし僕にとって、そもそも書く目的が一体何なのかが一向に見えてこない。



 書く行為とは基本的に、思考を文字に託し、可視化させることである。

そしてその行為には目的があり、一般的にある事項の伝達や何らかの意思表示がそれに当たる。

しかし私は一体何を伝えたいのだろうか。そもそも人に伝えるに足る内容をもっているのだろうか。



 記述によって思考が文字になり、その文字を媒介して、情報が他者に伝わっていく。

もちろん、口述という方法や映像、絵や歌、ジェスチャーなど、情報伝達手段は多様だ。

さらに、書く営みにも様々な形式があり、散文や韻文といった型によって、自ずと伝達内容の輪郭は大まかに形成されてしまう。

また、どこに書くかという場によっても、伝達内容や記述法は規定される。



 このように構造的に考えていけば、我々が筆を手にとって書く際にはもう既に、

おおよその記述内容が、一定の方向性をもって"しまう"ことが分かる。

すなわち賢明な私たちは、書くよりも以前から、あらかじめ何を書くのかを見越すことができるのである。

ぼんやりと表現内容の輪郭が型によって与えられ、それに従ってコンテンツが出力されているに過ぎない。



 そう考えるならば、「何を書くか、何のために書くのか」といった目的を考えることは、

あなたにとって書く行為が自明となる前に、媒体は文字でいいのか、韻律を伴わない散文形式でよいのか、

表現する場はココでよいのか、といった(伝達)手段を選定することと同じである。



2.書く場とは

 前章を一言でまとめると、「表現手段によって表現内容は決まってしまう」となる。

突飛だが、ここからは記述する際の「場」に焦点を当てて、私にとって書く目的とは何なのかを考えたい。



 場になぜ着目するかと言うと、今わたしは、はてなブログに文字を書いているのだが、

なぜ他のメディア、例えば日本人にとって発信場所の代表格となっているTwitterFacebookに書かないで、

ここに記述するのかという理由を考えなければ、あえてここに書く必然性がなくなる。

すなわちそれは、メディアの性質を知り、どう利用するかという「戦略」を考えることと同じだ。

もしメディアの特性(利点・欠点)を知らずに、ただ乱暴に文章をところ構わず記述すれば、

私が一体何を書いていて、そしてそれがどういう意味を客観的にもつのかを見誤る。



 さて、私は文章を書く行為に、①思考を具体化(可視化)させ、私が何を考えているのかを逆順的にさかのぼるため

②他者に思考を披露し、客観的評価を得るため。そしてそれを刺激として取り込み、思考に変化を与えるため

という2つの意味を与えている。ただそれは上述のように、場によって効果が異なる。



 ①を実行するには、私以外に誰の目にも触れられない日記帳という場に書けばよい。それは実施している。

それでも衆目の場で、わざわざ文章を書いているのは何故だろう。それも、はてなブログというある特定の性質を備えた場所に。

生意気にも、場の特徴を考えねば、文章のもつ主観/客観的価値が下がるといったような内容を前述したのだが、

しかし、このはてなブログに文章を書いているのも突発的であり、特にこれといった根拠もないのが現状である。

なんとなく有名だから、自分の書きたい文章の特色みたいなものが全体の雰囲気とマッチしているのでは?

といった非常に幼稚な理由でしかない。



 話を元に戻そう。私は日記をここ二カ月、だいたい毎日書いている(PCで)のだが、

「一体、オレは誰に向けて文章を書いているのだ?」という疑問が生じてきたのだ。

ふつう、人が見られない場に文章を残しているなら、その人自身のために書いていると思うし、

人には言えないようなことを思う存分に表現できるだろうと考える。しかし、日記という私的な場に書いているにも関わらず、

他者へ向けて文章を書いているような気がして仕方がなくなった。



 主体を司る、意思の領分において、私/他者の線引きが不明確になる。

それは私が社会的存在である証左に他ならないのだが、どうも気持ちが悪い。

私が話しているはずなのに、腹話術のように他者が私の思考を操り、本音でもないことを言ってしまう。

果たして、それでいいのだろうか。どうにか明確に私と他者の間に、観念的にでもいいからどうにか線引きすることはできないか。


 そう考えた時、私の存在を知るためには、他者が必要だと直感的に思いついた。

上述の「突発性、無根拠性」は、この直感に基づく。しかし、事実として、

「場」には特性があり、文化があり習慣があり、それを形成する人々があるのである。

場をコミュニティと言い換えればよいだろう。そしてはてなブログにははてなブログの、

TwitterにはTwitterのコミュニティがあり、それぞれに特性をもっていると言える。



 であるならば、コミュニティを横断して、異なる他者性を比較することによって、

私の存在を外郭から判明させていこうと考えた。故に、これまでTwitterFacebookしか更新していなかった私は、

新しいメディアを開拓するひとつの選択として、この場所を選んだ。

あらかじめ場所の特性をある程度、把握しておくことは必要だが、実際に利用することで分かることもある。

うん、完全に矛盾した文章となってしまった。


3.仕舞いに
 とりとめもない文章になってしまったのだが、私の書く文章はいつもそうだ。

こんな感じで適当にやっているから、主張を見失い、自分の価値をも分からなくなってしまうのだ。

思うに、文章を書く行為は誰だって簡単にできるのだが、それを充実させたいのなら、

言葉を論理的に結実させる忍耐力が絶対に必要になる。適当に書いて、公開して、

いわゆる愚痴になってしまう位なら最初からやらない方がいい。何も得られない。


 Twitterから離れたかった。仮想的にも、読者にとっては書き手の印象はこれまでの発言の文脈から推測する。

つまり、その人らしい発言とその人らしくない発言と判別されるわけだ。

べつにフォローワーが多いわけでも評価されているわけでもない。

だからどちらかというと、Twitterで発言するひとつの主体である私はその性質を備えた私として保存しておき、

一方、別の場でしか作り得ない私というのは別に保存しておきたいという試みがあるからである。

混ぜたくない。複数の私を発見し、多角的に私を知るために場所を移動させ、行き来する。


 本当にとりとめもない文章になってしまったが、このままで保存しておこう。そんな感じで。